何のための "教養" ?
中学三年生のころからだった。
自分が「リベラルアーツの高校/大学に 絶対いきたい!」と心で誓ったのは。
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どうして、そんなに憧れたのか。
偉大な人たち。
建築家、文学者、芸術家にも言えた。
リベラルアーツの特徴といえば、学びの幅の広さがある。 それを通して 「自分の専門外の人たちの視点を得たい」 「自分と異なる人と対立した状態から 融和に持っていきたい より良い結果づくりをしたい」 という思いがあったからだ。 またそれができる人って なんかかっこいい。 そんな憧れからスタートした。
それを、建築、文学、芸術・・・それぞれにおける かっこいい人 から 見ていきたい。
1559年/ピーテル・ブリューゲル。『ネーデルラントのことわざ』
中学生くらいのときに描いてた絵。いろんな人物(ひよこ?)に焦点を当てながら描くのが楽しくて 自分の中で 彼らが生きているような気がした。ブリューゲルに共感したのも このときの経験があったからかもしれない。
1660~61年/フェルメール。『デルフトの眺望』 最初見たときは、風景画としてイマイチ、、?と思ったけど、フェルメールが生きた町の景色を実際に目で見、風を肌で感じることで 350年前の日常生活とシンクロした感覚を得た。彼が30歳くらいのときに描いたもの。住んでいる町への、恒久的な愛着を感じる。
生物学者のユクスキュルは
利用する人間、文学や絵画に描かれる対象としての人間。
異なる立場に生きる人。異なる視野で社会を見る人。異なる価値観で対立する人。
既存の分離してある構造を 弁証法的に統合させ より良い結果を創造していくこと。
"わたしにしか見えないこの光景" をレンズごとに多層的に積み重ねることで 視点を複合させることで見えてくる 世界。イノベーションでも創造でも。~になりたい ではなく 何になるかわからない。そもそも 存在しているかも不明確だ。
そのレンズとは 政治学 社会学 デザイン ジェンダー学 修辞学
ありとあらゆるものを複合する。 そのレンズを増やすのが リベラルアーツ。
個人では限界がある。それを 他者同士で合わせること。
一篇目:「忘れられた巨人」カズオ・イシグロ
バルカン半島を旅していたとき、現地の人々に必ず聞くよう心がけていたことがある。
ここはかつてない、隣人が「強奪者」に変化した地なのだから。
「忘れられた巨人」のストーリーは、アーサー王の伝説があった時代(6世紀、日本では仏教が初めて伝来した頃)のブリテン島で幕を開く。ブリトン人とサクソン人という二つの民族が登場し、過去にはお互い戦火を交えていたようだが、主人公の老夫婦・ベアトリスとアクセルが生きる時代には、既に共存をしていたようだ。
そう、たとえば現在のボスニア・ヘルツェゴビナのように。
「私たちは何か、大切なことを忘れているんじゃないか」
村で起きる異変---人々が記憶を失いつつある---に触れて、老夫婦は旅に出かける。
やがて、記憶の欠如の理由は「山奥に巣づいている雌竜の吐く息」だということが判明する。その雌竜さえいなくなれば、みんな元に戻るのだ。よし、それでは退治して我々の記憶を取り戻そう…。
その記憶は、ふとした瞬間に蘇る。そのスイッチは、どこで入るのだろうか。
人々の記憶を閉じ込める雌竜の息は、たとえばメディアや政治的指導者の扇動によって掻き消される。
ツチ族がラジオを使い、フツ族をゴキブリ呼ばわりし、退治せねばならないと喧伝したこと。仲良くともに暮らしていた数万人が殺し合うことになった。記憶の奥底に眠る、"自分とは異なる相手"への潜在的な恐怖や憎悪が、掻き立てられ増幅した。
政治的指導者が、煽る。そうした途端、己の中のかすかな恐れ--私とは違う人種のあの人---に対して、リスリズム的な警戒心が蘇る。
「そんなことはもう絶対起きないだろう。今はもう仲良く暮らしているのだから」
だが、スレブレニツァの虐殺が起きる直前でも、当時の人々は同じことを口にしていた。私たちは仲良く共存できている。どうして殺し合ったりなどしようか---。
雌竜が吐く息は、何によって掻き消されるのだろうか。
また、"息"がなくなることで、惨禍の歴史はいつでも繰り返されるのか。
記憶の境目を、より見定まないといけない。
に興味を注がれたきっかけは、
「記憶」をテーマにしていることを、聞いたからだった。
どうしてか、己にとって、とても魅惑的なテーマに聞こえたのだ。
人と人との関係。民族のアイデンティティ。
日常の中でも、テストで
恋人との約束や、友人の年齢や過去の出来事さえも忘れてしまう。
なぜある人は覚えて、ほかの人は忘れるのか?
"生きる熱意"
フーコーは「知の権力」の中で、「歴史」
ごく単純に言えば、歴史は、"過去に起きたこと"だ。でも、"過去に起きたこと"なら、なぜ
私たちは先祖の"記憶"を引き継いでいる。至って平凡で、客観的に聞こえる。
しかし、その"記憶"自体 --- 何に憶える価値があり、何にないのか--- を判別する作業
は、極めて主観的ともいえる。私たちは、自身の"記憶"さえ、他者の識別したものによって構築されている。私たちは
自分自身を変えた、価値観との邂逅。人であり、本であり、経験であり、対話であり、
「知らなかった世界」にぶつかり、それに感情を揺さぶられた瞬間、
人はその経験を"記憶"する。
感動であり、嫉妬であり、納得であり、憎悪であり、尊敬であり、興奮であり。
では、記憶を忘れるとは?
逆に言えば、「知っている世界」に留まり続けていれば、新たな記憶は生まれづらい。
メディア
「迫害されるときの」記憶が蘇る。
ドキュメンタリー ボスニア