一篇目:「忘れられた巨人」カズオ・イシグロ
バルカン半島を旅していたとき、現地の人々に必ず聞くよう心がけていたことがある。
ここはかつてない、隣人が「強奪者」に変化した地なのだから。
「忘れられた巨人」のストーリーは、アーサー王の伝説があった時代(6世紀、日本では仏教が初めて伝来した頃)のブリテン島で幕を開く。ブリトン人とサクソン人という二つの民族が登場し、過去にはお互い戦火を交えていたようだが、主人公の老夫婦・ベアトリスとアクセルが生きる時代には、既に共存をしていたようだ。
そう、たとえば現在のボスニア・ヘルツェゴビナのように。
「私たちは何か、大切なことを忘れているんじゃないか」
村で起きる異変---人々が記憶を失いつつある---に触れて、老夫婦は旅に出かける。
やがて、記憶の欠如の理由は「山奥に巣づいている雌竜の吐く息」だということが判明する。その雌竜さえいなくなれば、みんな元に戻るのだ。よし、それでは退治して我々の記憶を取り戻そう…。
その記憶は、ふとした瞬間に蘇る。そのスイッチは、どこで入るのだろうか。
人々の記憶を閉じ込める雌竜の息は、たとえばメディアや政治的指導者の扇動によって掻き消される。
ツチ族がラジオを使い、フツ族をゴキブリ呼ばわりし、退治せねばならないと喧伝したこと。仲良くともに暮らしていた数万人が殺し合うことになった。記憶の奥底に眠る、"自分とは異なる相手"への潜在的な恐怖や憎悪が、掻き立てられ増幅した。
政治的指導者が、煽る。そうした途端、己の中のかすかな恐れ--私とは違う人種のあの人---に対して、リスリズム的な警戒心が蘇る。
「そんなことはもう絶対起きないだろう。今はもう仲良く暮らしているのだから」
だが、スレブレニツァの虐殺が起きる直前でも、当時の人々は同じことを口にしていた。私たちは仲良く共存できている。どうして殺し合ったりなどしようか---。
雌竜が吐く息は、何によって掻き消されるのだろうか。
また、"息"がなくなることで、惨禍の歴史はいつでも繰り返されるのか。
記憶の境目を、より見定まないといけない。
に興味を注がれたきっかけは、
「記憶」をテーマにしていることを、聞いたからだった。
どうしてか、己にとって、とても魅惑的なテーマに聞こえたのだ。
人と人との関係。民族のアイデンティティ。
日常の中でも、テストで
恋人との約束や、友人の年齢や過去の出来事さえも忘れてしまう。
なぜある人は覚えて、ほかの人は忘れるのか?
"生きる熱意"
フーコーは「知の権力」の中で、「歴史」
ごく単純に言えば、歴史は、"過去に起きたこと"だ。でも、"過去に起きたこと"なら、なぜ
私たちは先祖の"記憶"を引き継いでいる。至って平凡で、客観的に聞こえる。
しかし、その"記憶"自体 --- 何に憶える価値があり、何にないのか--- を判別する作業
は、極めて主観的ともいえる。私たちは、自身の"記憶"さえ、他者の識別したものによって構築されている。私たちは
自分自身を変えた、価値観との邂逅。人であり、本であり、経験であり、対話であり、
「知らなかった世界」にぶつかり、それに感情を揺さぶられた瞬間、
人はその経験を"記憶"する。
感動であり、嫉妬であり、納得であり、憎悪であり、尊敬であり、興奮であり。
では、記憶を忘れるとは?
逆に言えば、「知っている世界」に留まり続けていれば、新たな記憶は生まれづらい。
メディア
「迫害されるときの」記憶が蘇る。
ドキュメンタリー ボスニア